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二藤瑠花の落としもの

沖縄で文学をするとは11

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●仕事と文学、書けない日の記録、地方都市の時間の流れ

沖縄で文学を書く、という以前に、
私はまず生活者である。

朝起きて、仕事に行き、帰ってきて、ごはんを食べ、疲れて眠る。
その繰り返しのなかに、文学はどこに入り込むのだろう。

若い頃、どこかで思っていた。(今も、もしかしたら、若いといわれる年代なのかもしれないが、それよりも更に若い過去の話だ。)
「本気で文学をやるなら、仕事は邪魔なのではないか」と。

けれど現実は違った。
仕事をしなければ暮らせない。
そして暮らさなければ、書くこともできない。

地方都市の生活は、東京とは違う密度で流れている。
終電を逃すほどの喧騒はない。
けれど、選択肢も少ない。

イベントも、書店も、文学の集まりも、
探せばあるが、自然には転がっていない。

だからこそ、仕事のあとに創作をするというのは、
「時間をひねり出す行為」になる。

体力と気力を削って、
わずかな時間を確保する。

それは決してロマンチックではない。
むしろ、地味で、地道だ。

私は、書けない日が多い。

仕事で失敗した日。
人間関係で消耗した日。
なんとなく気圧が重い日。

「今日は無理だ」と思いながら、
ノートを開いて閉じる。

以前は、そんな自分を責めていた。
「本気じゃないのではないか」と。

でも今は、少しだけ考え方が変わった。

書けない日も、記録になるのではないか、と。

書けなかったという事実。
何も浮かばなかった夜の静けさ。
スマホをだらだら眺めて終わる時間。

それらも、生活の一部だ。

地方都市の夜は静かだ。
東京のような騒音がない分、
自分の無力さだけがよく聞こえる。

その静けさを、どう扱うか。

書けない日の記録は、
未来の作品の地層になるのかもしれない。

沖縄の時間は、よく「ゆっくりしている」と言われる。

観光パンフレット的な言葉だ。
けれど実際に暮らしていると、それは少し違う。

確かに、通勤ラッシュは東京ほどではない。
けれど、仕事は忙しい。
締切は容赦ない。

ただ、「焦りの質」が違うのかもしれない。

東京は、常に競争の気配がある。
誰かがすぐ隣で成功している。
新しい文学賞、新しい出版社、新しい才能。

地方では、その距離が物理的に遠い。
だからこそ、焦りは遅れてやってくる。

SNSを通して知る、誰かの受賞。
タイムラインに流れるデビュー情報。

それを、少し遅れて実感する。

地方都市の時間は、
現実と情報のあいだに、わずかな時差がある。

その時差が、
私を少しだけ守ってくれることもあるし、
逆に孤独を深めることもある。

仕事をしながら文学をすることは、
効率の悪い選択かもしれない。

でも私は思う。

生活と切り離された文学は、
どこか空洞になってしまうのではないか、と。

仕事で感じた小さな悔しさ。
帰り道の湿った風。
コンビニの光。
バスの揺れ。

それらがあるから、
言葉は現実に触れ続けられる。

地方都市の時間は、
爆発的ではない。

けれど、静かに積み重なっていく。

その堆積の中で、
私は今日も少しだけ書く。

たとえ一行でも。
たとえ「今日は書けなかった」と書くだけでも。

沖縄で文学をするということは、
特別な瞬間だけでなく、
生活そのものを引き受けることなのだと思う。

更新日:2026年2月25日


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