●方言を使わない罪悪感、「本土の読者」を無意識に想定していないか
沖縄で文学をする、と言うとき、
避けて通れないのが「言葉」の問題です。
私は、普段の生活では標準語を話します。
うちなーぐちを自在に操れるわけではありません。
祖父母の世代が話していた言葉。
耳で聞き、意味はなんとなく分かるけれど、自分の文章に自然に流し込むことはできない。
だから、私は標準語で書いています。
けれど、そのたびに、小さな罪悪感が生まれます。
沖縄で書いているのに、
なぜうちなーぐちを使わないのか。
沖縄文学の系譜を思い浮かべるとき、
言語の実験や混淆は、重要なテーマのひとつでした。
言葉そのものが、歴史と切り離せないからです。
それなのに、私は、滑らかな標準語で文章を書いている。
それは裏切りなのではないか、とさえ思う瞬間があります。
けれど同時に、私は問い返します。
うちなーぐちを使えば、それだけで「沖縄文学」になるのだろうか。
標準語で書くことは、本当に沖縄性を手放すことなのだろうか。
私は標準語世代です。
学校教育も、読書体験も、ほとんどが標準語で積み重なってきました。
私の思考の回路は、すでに標準語でできている。
それを無理に変換することは、誠実だろうか。
けれど、ここでさらに厄介な問いが浮かびます。
私は、誰に向けて書いているのか。
沖縄の読者か。
それとも、「本土」の読者か。
気づけば、私はどこかで「説明」をしている自分がいます。
沖縄特有の言葉を避ける。
背景を補足する。
文脈を丁寧に整える。
それは親切心なのか。
それとも、無意識に「本土の読者」を想定しているからなのか。
東京の編集者。
中央の文学賞。
全国紙の書評。
どこかで私は、「届く」ことを考えている。
そのとき、私はすでに標準語を選び、「分かりやすさ」を優先しているのではないか。
沖縄で文学をするとは、
沖縄の歴史や風景だけでなく、
言葉の選択においても立場を問われることなのだと思います。
うちなーぐちを使わないことへの罪悪感。
標準語を使うことへの疑念。
けれど、私は最近、こう考えるようになりました。
大切なのは、どの言葉を使うかよりも、
どの立場で使っているかを自覚しているかどうか。
標準語であっても、
沖縄の湿度を含ませることはできる。
うちなーぐちを使っても、
観光的な記号として消費する危険はある。
問題は、言葉そのものよりも、
誰の視線で書いているのか、なのだと思います。
私はまだ、「本土の読者」を完全には手放せていません。
認められたい気持ちもある。
広く読まれたい気持ちもある。
けれど同時に、
沖縄にいる読者に向けても書きたい。
あるいは、どこにも属さない誰かに向けて。
標準語と、うちなーぐち。
中心と周縁。
届くことと、根を張ること。
そのあいだで揺れながら、私は今日も文章を書いています。
言葉を選ぶことは、
立場を選ぶこと。
沖縄で文学をするとは、
その選択から逃げないことなのかもしれません。
私はまだ答えを持っていません。
けれど、少なくともこれだけは言えます。
標準語で書いている今の私もまた、
沖縄で生きている一人の人間であるということ。
その事実から、言葉を始めるしかないのだと思います。
更新日:2026年2月24日
コメントを残す