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二藤瑠花の落としもの

沖縄で文学をするとは⓻

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●重い歴史との距離、影響を受けることへの戸惑い

沖縄で文学をする、と口にするとき、私はいつも少し緊張します。

沖縄文学には、すでに厚みのある系譜があるからです。

たとえば、戦後沖縄文学を代表する存在である 大城立裕。
たとえば、戦争の記憶と現在を鋭く接続し続ける 目取真俊。
そして、うちなーぐちと独自の語りで世界を編み上げる 崎山多美。

彼らの作品を読むとき、私はまず圧倒されます。

歴史の重さ。
土地に刻まれた記憶。
沖縄という場所が背負ってきたもの。

その厚みに対して、自分の書こうとしているものが、あまりに軽く感じてしまう瞬間があります。

私は、戦争を体験していない世代です。
基地問題のただ中にいる当事者でありながら、それを正面から書く覚悟があるのかと問われれば、言葉に詰まる。

沖縄文学の系譜は、誇りであると同時に、重圧でもあります。

こんなにも強い先達がいるのに、私は何を書くのか。

歴史を書かずに、生活を書いていいのか。
社会を書かずに、個人的な劣等感を書いていいのか。

その戸惑いの中で、私は 崎山多美 先生に出会いました。

電話でアポを取り、「作品を見ていただけませんか」と、半ば懇願するように頼み込んだのです。
待ち合わせは、モスバーガーでした。

先生は、ゆっくりと話す方でした。
七十歳は超えていると思われる年齢。けれど、その年ならではの寛大さと、気品のある佇まい。

緊張で固まる私を前に、先生は事前に送った原稿のゲラを取り出しました。
そこには、直筆の手直しがびっしりと書き込まれていました。

厳しい言葉もありました。
創作に向き合う姿勢についての助言もありました。
ご自身の過去の話も、淡々と語ってくださいました。

そして、ふいに言ったのです。

「東京は、やめなさい」

私は思わず、「空が遠いからですか?」と聞きました。

先生は小さく笑って、こう言いました。

「私は、東京の会社とうまくやれなくてね」

それ以上は、多くを語りませんでした。

「今までは、“なんとかなる”でどうにかなっていた時代だったけど、これからはそうはいかないかもしれないわね」

あなたの好きなようにやればいいのよ、と。

「おばあちゃんだと思っていいからね。あなたは孫みたいなものよ」

どうして、こんなにもよくしてくれるのだろう。

私は、何も返せない無力感と、それでも書き続けたいという衝動がぐちゃぐちゃになりながら、「ありがとうございます」としか言えませんでした。

後日、先生の読書会にも参加しました。
波止場書房で開催された読書会で、『うみんちゅブギ』について語り合いました。

参加者の中には、辺野古など現代沖縄社会との接続を指摘する方もいました。
けれど私は、どちらかといえば構成に目がいっていました。

語り手「ワン」と、透明な聞き手の存在。
聞き手は読み手なのか、それとも作中の別の存在なのか。

先生は、韓国語とうちなーぐちを織り交ぜた「多美語」についても話してくださいました。
私は、すべてがうちなーぐちだと思い込んでいたのです。

その遊び心。
言語を混ぜ、ずらし、揺さぶる力。

それは、「沖縄文学=重い」という私の思い込みを、静かに崩しました。

帰り際、私はサインをお願いしました。

すると先生は言いました。

「サインは、遠くにいる人からもらうものよ」

その言葉の意味を、私はしばらく考えていました。

遠い存在ではない、ということ。
同じ地面に立っているということ。

沖縄文学の系譜は、遠くにある巨大な山のように感じていました。

けれど本当は、同じ空気の中にいるのかもしれない。

重い歴史との距離をどう取るか。
先達の影響をどう受け取るか。

それは、「背負う」ことではなく、「対話する」ことなのだと、少しだけ思えるようになりました。

私は、大城立裕にも、目取真俊にも、崎山多美にもなれません。

けれど、読者として震えた私の感覚は、確かに私のものです。

沖縄文学の系譜を受け取るとは、
圧倒されることでも、模倣することでもなく、
自分の立ち位置を探し続けること。

歴史の重みを知りながら、
それでも、自分の小さな声を消さないこと。

その距離感を、私はまだ模索しています。

けれど、モスバーガーで向かい合ったあの日の時間は、
私にとって、沖縄文学が「遠い神話」ではなくなった瞬間でした。

そしてそれは、
ここで書き続けてもいいのかもしれない、と思えた瞬間でもあったのです。


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