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二藤瑠花の落としもの

沖縄で文学をするとは⓺

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●「青い海」ではない沖縄、書きたいのは風景か、空気か

沖縄と聞いて、多くの人が思い浮かべるものは、おそらく同じです。

青い海。
白い砂浜。
強い日差し。
ゆったりと流れる時間。

けれど、私が毎日見ている沖縄は、必ずしもその色をしていません。

通勤途中の渋滞。
湿度で重たくなるシャツ。
台風前の、鉛のような空。
夜のコンビニの白い蛍光灯。

観光地としての沖縄は、完成されたイメージを持っています。
消費されるための沖縄。
写真に収められる沖縄。

そこには、分かりやすい「風景」がある。

けれど、生活地としての沖縄には、はっきりとした輪郭がありません。

それは、もっと曖昧で、湿っていて、言葉にしづらいものです。

私は沖縄で文学をするとき、この二つの沖縄のあいだで揺れます。

青い海を書くべきなのか。
それとも、海の見えない住宅街を書くべきなのか。

観光パンフレットに載る沖縄を書くのか。
スーパーの特売チラシと、アパートの階段を書くのか。

沖縄を題材にするだけで、「沖縄らしさ」を期待されることがあります。

方言。
基地。
戦争。
エイサー。
サトウキビ畑。

それらは確かに沖縄の一部です。

けれど、それだけではない。

私が毎日感じているのは、もっと説明のつかない「空気」です。

梅雨の終わりの、重たい湿度。
夕方の、コンクリートから立ち上る熱。
台風が来る前の、妙に静まり返った住宅街。

それは、写真には写りにくい。

だから私は迷います。

書きたいのは風景なのか、空気なのか。

風景は、共有しやすい。
空気は、説明しにくい。

風景を書くと、「沖縄らしい」と言われやすい。
空気を書くと、「どこでもいい話」に見えるかもしれない。

けれど、私が本当に書きたいのは、おそらく空気のほうです。

青い海ではなく、海が見えない日の沖縄。
観光客がいない時間帯の沖縄。
誰も写真を撮らない瞬間の沖縄。

観光地としての沖縄は、強い光に照らされています。
生活地としての沖縄は、少し影の中にあります。

私はその影の部分に、言葉を置きたい。

それは、沖縄を特別視しないということでもあります。

沖縄は楽園ではない。
けれど悲劇だけの土地でもない。

ただ、人が暮らしている場所。

沖縄で文学をするということは、
沖縄を象徴として扱わないことかもしれません。

青い海を書くことが悪いのではありません。

けれど、海が青くない日もあるということを、忘れないこと。

風景をなぞるのではなく、
空気をすくい取ること。

それが、生活地としての沖縄を書くということなのだと、今は思っています。

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