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二藤瑠花の落としもの

沖縄で文学をするとは⓹

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●地方で文化を続けることと、私の個人的な劣等感

地方で文化を続けることは、構造の問題だけではない。

もっと個人的な問題が、そこにはあります。

私の中にある劣等感です。

東京にいないこと。
文学界の中心にいないこと。
著名な編集者とつながっていないこと。
大きな賞歴がないこと。

そうした「ないもの」を、私は何度も数えてきました。

大学時代、私は文芸誌「煉瓦」に所属し、自分たちで詩のフリーペーパーを作り、ギャラリーに配布していました。

誰かに見つけてもらうためではなく、まずは自分たちの手で場を作るために。

けれど同時に、心のどこかで思っていました。

これは“小さな活動”なのではないか、と。

東京の出版社の刊行物と比べてしまう。
有名文芸誌と比べてしまう。
フォロワー数や受賞歴と比べてしまう。

地方で文化を続けるということは、
常に“比較”との戦いでもあります。

私はネット詩の世界でも活動してきました。

匿名に近い形で作品を投稿し、互いに批評し合う場。
そこでは場所は関係ないはずでした。

けれど、ネットであっても、「中心」は存在します。

バズる人。
引用される人。
影響力を持つ人。

数字という可視化された評価の中で、私はまた劣等感を抱きました。

さらに、文学系VTuberとして朗読配信もしてきました。
ツイキャスで、自分の詩や好きな作品を読み上げる。

画面の向こうにいるのは、何人なのか分からない。
同時接続が増えない日もある。

そのたびに、「私は何をしているのだろう」と思う。

東京の文学イベントの満員の会場と、
自室での小さな配信。

どちらが“本物”なのか、と比べてしまう自分がいる。

けれど、最近ようやく気づきました。

この劣等感こそが、私の立っている場所なのだと。

地方で文化を続けるということは、
「小ささ」を引き受けることなのかもしれません。

大きな舞台に立てない自分。
評価が爆発しない自分。
それでも続けている自分。

ネット詩の運営も、VTuberとしての朗読も、「煉瓦」の活動も、すべては中央の代替ではありません。

それは、私なりの回路です。

東京に行けないからやっているのではない。
東京にいなくても、やれる形を探してきただけなのです。

劣等感は消えません。

けれど、劣等感があるからこそ、問い続ける。

なぜ文学をするのか。
なぜ沖縄で続けるのか。
なぜ場を作ろうとするのか。

地方で文化を続けるとは、
成功の物語を持たないまま、続けること。

拍手が少なくても、
数字が伸びなくても、
「それでもやる」と決めること。

私の劣等感は、消えることはないでしょう。

けれどそれは、私が中心を絶対視している証拠でもあります。

だから私は、少しずつ、基準をずらしたい。

東京と比べるのではなく、
昨日の自分と比べる。

フォロワー数ではなく、
言葉の強度で測る。

地方で文化を続けるとは、
自分の尺度を作ること。

それが、いまの私の、正直な答えです。

更新日:2026年2月22日


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