人造エネミーが公開されて、15周年になった。私のSNSのタイムライン上では、お祝い絵として、カゲロウプロジェクトのファンアートが飛び交っていた。
かくいう私も、カゲロウプロジェクトのキャラクターやストーリーに魅了された一人だ。中学生時代、近所のTSUTAYAでCDを借り、WALKMANに曲を取り込んで、勉強の傍らループ再生をしていた。思えば、その年代の中学生の中では、比較的アナログな方だったかもしれない。
他の子は、iPodや、iPhoneを持っていただろうけど、私は、ガラケーだったし、音楽を聴く方法は、TSUTAYAでレンタルすることだった。あれから10数年経ち、私は、久しぶりにカゲロウプロジェクトの楽器を聴いた。サマータイムレコードや、チルドレンレコード、アヤノの幸福理論……。あの時代の青少年に刺さり、熱狂的ファンが多く、一大ブームとなったのが懐かしい。機械的な音声と、切なげな旋律は、あの頃の夏を思い出すには充分過ぎた。
15年という歳月は、流行を一巡どころか、二巡させるのに十分な時間だ。それでも、イントロの一音で、体温や湿度までもが当時のまま蘇る作品はそう多くない。
とりわけ、「人造エネミー」から始まった物語は、単なる楽曲群ではなく、世界観そのものだった。じんが描いたのは、音楽と物語とキャラクターが連動する新しい表現形式。後に「メディアミックス」と呼ばれるその広がりは、ニコニコ動画という文化圏を飛び越え、書籍化、アニメ化へと発展していった。
たとえば、あの夏の終わりを閉じ込めたサマータイムレコード。
反逆の号砲のように鳴り響くチルドレンレコード。
そして、やさしくも残酷な真実を抱きしめるアヤノの幸福理論。
それらは単なるヒット曲ではなく、「居場所」をくれる物語だった。
閉塞感。
親にも、先生にも、本音を言えない感覚。
何者にもなれない焦燥。
そんな曖昧な感情に、ボーカロイドの無機質な声が、逆説的な温度を与えてくれた。感情を持たないはずの機械音声が、誰よりもこちらの心を代弁してくれる。その構造そのものが、思春期の孤独と共鳴していたのだと思う。
あの頃、イヤホン越しに聴いていた夏は、永遠に終わらないと思っていた。
けれど、現実の夏は必ず過ぎる。
それでも不思議なことに、再生ボタンを押せば、あの「終わらなかった夏」に、いつでも戻ることができる。物語はループし、キャラクターたちは何度でも立ち上がる。まるで私たち自身の記憶のように。
十五周年という節目は、単なる記念日ではない。
それは、「あの頃の自分」がまだどこかで生きている証明でもある。
終わらない八月
再生ボタンを押すと
午後四時の光が差し込む
机の上の問題集
解けない数式
窓の向こうの入道雲
イヤホンの奥で
世界が燃え上がる
人工の声が
やさしく名前を呼ぶ
「大丈夫」とは言わない
ただ、物語をくれる
終わらなかった八月が
ループの中で息をする
あの少年少女は
何度でも立ち上がり
何度でも撃ち抜かれ
それでもまた
立ち上がる
十五年後の私が
同じ旋律に触れて
少しだけ笑う
あの夏は
確かに終わった
けれど
物語は
まだ
終わっていない
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