文藝賞に応募する予定だった小説です。私の中で、あまり納得のいく文章にならなかったけれども、構成や、設定などはお気に入りのため、ここで蔵出しします。
声は、画面の向こうから届くものだと思っていた。
小さい頃、祖母と並んで見ていたテレビのリアリティーショー。夕方のニュース番組。中学生のとき、ひとりで繰り返し見ていた深夜アニメ。課金はしないまま、今も惰性でログインしているスマートフォンのゲーム。
それらの声はすべて、こちらに向けて話されているようで、実際には誰のものでもなく、どこにも触れない音だった。
だから、それが部屋の中に入ってくるはずがないと思っていた。
正確に言えば、私の生活と溶け合うような形で、声が存在することはありえない、と。
夜、アパートの机に向かって、私はスマートフォンを伏せていた。
白い天板に映る蛍光灯の光が、わずかに揺れている。窓は閉め切っているのに、遠くの国道を走る車の音が、一定のリズムで耳に届く。
就職活動用に作ったはずの履歴書は、印刷されないまま、何度も保存だけが繰り返されている。
「履歴書_1」「履歴書_2」「履歴書_syusei」
名前を変えるたびに、内容はほとんど変わらない。少しぼさついた髪をまとめ、目の下にうっすらと影を落とした顔で、カメラを見つめている証明写真のデータを、コピー&ペーストで量産する。
その顔が、自分なのかどうか、だんだん分からなくなっていた。
大学の図書館でバイトをして、閉館後の静かな書庫に残る時間が、私は好きだった。
空調の止まった書庫には、わずかに紙の匂いが残っている。ページの間に挟まれた誰かの栞。返却期限を示す日付のスタンプ。
そうしたものが積み重なっていることだけが、この世界には確かに時間が流れてきたのだと、教えてくれる気がした。
けれど、そこにいられるのはほんのわずかな時間だけだ。
労働時間は厳密に区切られていて、余韻に浸ることは許されない。利用者が帰り、照明が落ちると、私たちは淡々と片付けを始め、すぐに帰宅の準備に入る。
図書館は、時間の蓄積というロマンに満ちた場所だと思っている。
けれど、働いている限り、そのロマンに身を委ねる余裕はない。
来館者がいかに快適に過ごせるか。そのために、私たちは動き続ける。配架、返却処理、問い合わせ対応、重い本の運搬。思いのほか、肉体労働が多い。
運動部に所属したことのない私は、帰宅するとベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまう日が多かった。
ボイスメッセージを使い始めたのは、偶然だった。
ほんの少し、誰かと触れ合いたい、そんな気持ちがなかったと言えば嘘になる。
文字では長すぎることも、声なら短く済ませられる、と誰かが言っていた。
試しに録音した自分の声は、思っていたより幼く、頼りなかった。再生ボタンを押した瞬間、部屋に自分の声が広がり、私は少し後悔した。
この声で、誰かに届いてしまうのだ、という感覚が、怖かった。
しばらくして、通知が点いた。
アイコンは初期設定のままで、名前も表示されていない。
おそるおそる再生すると、低く、落ち着いた声が流れた。
感情を押しつけることも、距離を詰めることもなく、一定の温度でそこにある声だった。
間に、わずかな空白があった。
息を吸う音なのか、言葉を選んでいる時間なのか、分からない沈黙。
「はじめまして。……聞こえていますか」
それだけだった。
名乗りも説明もない。ただ、確かにこちらに向けられた声だった。
私はその声を、何度も聞き返した。
音量を下げたり、イヤホンを外したりして、距離を測るように。声は近づきも遠ざかりもしない。ただ、同じ位置に留まっていた。
次のメッセージで、彼は言った。
「鳥の名前で呼び合う、というのはどうでしょう」
理由は語られなかった。
声だけのやりとりが、鳥のさえずりのようにも感じられたのかもしれない。軽い冗談のようでもあり、すでに決まっている規則のようでもあった。
「じゃあ、あなたはフクロウで」
私はそう返した。
夜に活動する鳥で、遠くからでも声が届く。この人には、夜が似合う気がした。思いついただけの名前だった。
少し間を置いて、返事が来た。
「では、あなたはカナリアですね」
その呼び名を聞いたとき、なぜか訂正しようと思わなかった。
カナリア、金糸雀。私の好きだった漫画に登場するキャラクターの名前でもあった。もっと違う鳥もあったはずなのに、その声で呼ばれる「カナリア」は、すでに私の一部のように思えた。
それから、私たちは声を送り合った。
天気の話。移動中の足音。コーヒーを淹れる湯の音。
彼の生活については、ほとんど分からなかった。
ただ、ときどき、遠くで子どもの声のようなものが混じることがあった。
「今のは?」
と私が聞くと、彼は少し笑って、
「生活音です」
と言った。
フクロウは、年齢も職業も語らなかった。
危険な仕事なのか、堅い仕事なのか、そのどちらとも取れる言い方をした。ただ、「仕事で忙しい」という言葉が、ボイスメッセージの中に何度か出てきた。
メッセージを送る時間帯も不規則で、リアルタイムで会話ができることは少なかった。録音された音声を聞き、それにレスポンスする。その形で、会話は成り立っていた。
私は深く聞かなかった。
聞かないことで、この関係が保たれている気がした。
就活がうまくいかないことも、図書館の非常勤を転々としていることも、私は詳しく話さなかった。
ただ、
「今日は静かな場所にいました」
とだけ言うと、
「それは良かった」
と、フクロウは言った。
呼び名は、変わらなかった。
カナリア、と呼ばれるたび、私は画面の向こうで、同じ色のまま鳴いている気がした。
第2章
私たちのあいだには、いつのまにか、いくつかの規則のようなものができていた。
それは話し合って決めたものではなく、破られたこともない。だから、規則と呼ぶほどの強度があったのかどうかも、よく分からない。
名前は聞かない。
年齢も、職業も、住んでいる場所も、具体的には語らない。
代わりに、声だけがあった。
ボイスメッセージは、文字よりも多くを含み、同時に多くを隠してくれる。
言いよどみや、呼吸の癖、わずかな間。そういうものが、その人の輪郭を形づくる一方で、履歴書に書くような情報は、どこにも残らない。
私たちは、それで十分だと感じていた。
フクロウは、私をいつも「カナリア」と呼んだ。
語尾を上げるわけでも、特別な感情を込めるわけでもない。ただ、名前を呼ぶように、その鳥の名を口にする。その声音が、私には心地よかった。
私も、彼を「フクロウ」と呼んだ。
本当の名前を知らないことに、不安を覚えるよりも、知ってしまうことのほうが、どこか怖かった。
文字にしてしまえば、固定されてしまう。
名前も、年齢も、職業も、いったん文字になれば、変更は難しい。けれど、声は違う。同じ言葉でも、その日の体調や時間帯で、まったく別のものになる。
だから私たちは、文字にしないことを選んだのだと思う。それこそ、はじめは、新手のマッチングアプリなんじゃないかと思って、私も身構えていた。猫を被って、ご機嫌を取るようなやりとりをしなければいけない、私の素性も話さなければならない、と肩に力が入っていた。フクロウは、そういったことを強要しなかった。
私の側の生活も、ほとんど語られなかった。
大学を卒業したあとのこと。何度か面接に行ったこと。結果が出るまでの、妙に長い時間。
そうした話題に触れそうになると、私は、少しだけ言葉をぼかした。
「今日は、静かな場所にいました」
「人の少ないところで、作業をしていました」
それ以上は言わない。
フクロウも、それ以上は聞かなかった。
彼は、「それは良かったですね」とか、「静かな場所は、助かりますよね」と、当たり障りのない返事を返してくる。
まるで、そこに具体的な場所や状況が存在しないことを、あらかじめ了承しているみたいだった。
図書館での勤務のことも、私は詳しく話さなかった。
本に囲まれていること。静かな時間があること。
そういう断片だけを、声に乗せる。
重い本を運ぶことや、閉館間際の慌ただしさや、シフトが突然減ることについては、触れなかった。
触れないままでも、声の端に残る疲れや、息の浅さが、それらを伝えてしまう気がしていた。
フクロウの側の生活は、さらに輪郭がなかった。
仕事の話は、いつも曖昧だった。
「今日は、ちょっと立て込んでいて」
「今は、あまり詳しく言えないんですけど」
「朝から、集まりがあって」
「昨日は、一日中追われていて、少し時間が出来たので話そうと思いました」
危険な仕事なのか、堅い仕事なのか。
そのどちらとも取れる言い方をして、彼はそれ以上、踏み込まない。
私は、それを追及しなかった。
ただ、メッセージが届く時間帯は、一定していなかった。
深夜のこともあれば、早朝のこともある。昼間に届くことは、ほとんどない。それは、裏を返せば、昼間の時間帯は、何かしらの作業をしていて、スマホを触れる環境ではないということでもあった。
そして、ある日、初めて、それまでとは違う音が混じった。
最初は、気のせいだと思った。
フクロウの声の向こうで、かすかに、何かが動く気配がする。風の音にしては近すぎて、生活音にしては、はっきりしない。
耳を澄ますと、小さな声が聞こえた。
言葉にはなっていない。けれど、抑揚のある、柔らかい音。
子どもの声だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。
「……今のは?」
私がそう聞くと、フクロウは一瞬、間を置いた。
その沈黙は、これまでよりも、ほんの少し長かった。
それから、彼は少し笑って、
「生活音です」
と言った。
それ以上の説明はなかった。
けれど、そのあとに届いた声は、わずかに音量が下げられていた。周囲を気にしているような、慎重な話し方だった。
私は、それ以上、何も聞かなかった。
聞かないことが、正解のように思えた。
子どもの声は、それきり聞こえなくなった。
けれど、それ以降、フクロウの声の向こうには、目に見えない空間が広がった気がした。
誰かがいる場所。私の知らない生活が、確かに存在している場所。
それでも、呼び名は変わらなかった。
「カナリア」
「フクロウ」
その二つの名前だけが、私たちのあいだで、はっきりとした形を保っていた。
文字にしないことで、壊れずに済んでいるものがある。
私は、そう信じていた。
少なくとも、その声を聞いているあいだは。
第3章 同じ速さ
私たちは、同じ速さで話していた。
正確に言えば、同じ速さで録音し、同じ速さで再生していた。
フクロウから届くボイスメッセージは、たいてい一分前後だった。
長すぎず、短すぎず、途中で話題が変わることもない。
私はそれを再生し、少し考えてから、だいたい同じくらいの長さで返す。
リアルタイムの会話をしたのは、はじめましてのときだけであった。ボイスメッセージでのやり取りは、最初こそ慣れるのに時間がかかったが、そのやりとりが、いつのまにか習慣になっていた。
送られてくる声は、すでに過去のものだ。それでも、私が再生する瞬間だけは、現在になる。
イヤホンを耳に入れ、再生ボタンを押す。
――こんにちは。フクロウです。カナリアさんのところも、冷え込んでいるかな。私のところは、だいぶ雪も降ってきて、寒さにこたえる日々が続いています。
低く、落ち着いた声が流れ出す。
私は、歩きながら聞くこともあれば、ベッドに腰掛けて聞くこともあった。けれど、どんな場所で聞いても、その声は、いつも同じ距離にあった。近づきもしなければ、遠ざかりもしない、測定可能な距離。
聞き終えると、すぐには録音しない。
少し間を置く。その間に、言葉を選ぶというより、声の温度を整える。
感情を削るのではなく、膨らませすぎないようにする。
――こんにちは。カナリアです。音声、聞きました。フクロウさんのところは、雪が降っていて寒いんですね。私のところは、暖冬というか、雪があまり降らない地域なので、雪という単語を久しぶりに聞いた気がします。今日は、仕事でミスをしてしまい、少しだけ落ち込んでいました。――
同じ速さで返すこと。
それは、意識して決めたことではない。
けれど、どちらかが長く話しすぎたり、極端に短く返したりすることは、ほとんどなかった。
関係は、進まなかった。
名前を聞くことも、会う約束をすることもない。
声のやりとりは増えも減りもせず、一定の間隔で続いていく。
それが、私には安心だった。
進まないということは、変わらないということだ。
変わらないということは、壊れない可能性が高い。
私は、履歴書を書き直しながら、フクロウの声を聞いた。
空欄を埋めるたびに、再生ボタンを押す。
現実の文字数と、音声の秒数が、奇妙に釣り合っているように感じられた。
――こんにちは。フクロウです。カナリアさんはお元気ですか。
(車の中だろうか。ラジオの音が、前回より少しだけ近い。)
印刷されないままのデータが増えていく一方で、ボイスメッセージの数だけは、きれいに揃っていた。
削除する理由も、整理する必要もない。
フクロウの側でも、生活は進んでいるはずだった。
仕事があり、眠る時間があり、誰かと過ごす時間がある。
けれど、声の中では、そうした変化は感じ取れなかった。
彼の声は、いつも同じ速さで、同じ調子で流れてくる。
速さを守っている、というより、速さから外れないようにしているように聞こえた。
私は、自分の声も同じだろうかと、ふと思った。
録音された自分の声を聞き返すことは、ほとんどなかった。
聞き返さないことで、同じでいられる気がしていた。
それは、相手に合わせているというよりも、関係に合わせているのだと思った。
同じ速さでいることは、相手を追い越さないということだ。
置いていかれることも、置いていくこともない。
ただ、その均衡が、いつまで続くのかは分からない。
ある日、フクロウからのメッセージが、いつもより少しだけ短かった。
数秒の違い。それだけのことだった。
それでも、私はその差を、はっきりと感じ取ってしまった。
内容に変わりはない。
声の調子も、これまでと同じだった。
けれど、何かが省かれているような気がした。
言葉ではなく、間が。
私は、同じ長さで返そうとして、少し迷った。
数秒を埋めるために言葉を足すこともできたし、逆に短く返すこともできた。
どちらも、できてしまうことが、少し怖かった。
結局、私は、これまでとほとんど変わらない長さで録音した。
同じ速さに戻すように。
戻せると、信じている手つきで。
その夜、再生した自分の声が、ほんのわずかに遅れて聞こえた気がした。
実際には、何も変わっていないはずなのに。
進まない関係は、安心できる。
けれど、止まっているものは、知らないうちに、置き去りにされることもある。
イヤホンを外すと、部屋はしんと静かだった。
私は、ひとりなんだ。改めて、そう感じた。
再生を止めたあとも、耳の奥に、同じ速さの声が残っていた。
それが、ずれていく音なのか、まだ揃っている音なのか。
その違いを、私はまだ、確かめる術を持っていなかった。
第2部
第4章 配架
図書館の朝は、音が少ない。
正確に言えば、音はあるのに、意味を持たない。
自動ドアが開く音、カウンターの引き出しが滑る音、返却された本が台車に積まれるときの、紙と紙が触れ合う乾いた気配。
それらはすべて、誰かに向けられているわけではなく、ただ制度の一部として鳴っている。
意志も感情も伴わない音が、開館前の空間を均一に満たしていく。
私は、カウンターの奥で名札をつけ、今日の担当表を確認する。
「配架」。
それだけで、その日の身体の使い方が決まる。
返却された本を台車に乗せ、分類記号を確認し、棚に戻す。
決められた順序で、決められた位置へ。
間違いがあれば、次に探す人が困る。
けれど、正解はいつも一つで、そこに私の判断が入り込む余地はほとんどなかった。
答えが書かれた答案用紙を手渡されているようで、それが、嫌ではなかった。
迷う必要がなく、責任の所在も明確だ。
テンポよく、自分なりのリズムを刻みながら、台車に乗せた本を、できるだけ音を立てず、なめらかに取る。
静かに歩きながら、背表紙を目で追う。
文字の列は、整然としていて、私に話しかけてこない。
声を出さなくていい仕事。
心の中で、本にだけ語りかける仕事。
それだけで、この場所に長くいられる理由になる気がした。
けれど、私は、非正規職員だった。
年度ごとの更新。
年度末には、更新をするかどうかの面接があり、契約書には、開始日と終了日がはっきりと書かれている。
そこには、あらかじめ終わりが組み込まれている。
「更新の可能性あり」
その一文は、希望というより、宙づりの状態を示していた。
あるとも、ないとも言えない。
私は、次の日には職を失っているかもしれないし、何年も居続けることができるかもしれない。
考えたところで、今の事態が良くなるわけでも、悪くなるわけでもない。
だから、考えすぎないようにしている人が多かった。
私も、そのひとりだった。
「来年度のこと、どうするの?」
休憩室で、同じ立場の職員に聞かれることがある。
私は、少し考えてから、「まだ分からないです」と答える。
本当は、分からないのではなく、決める材料がないだけなのに。
けれど、その違いを説明するほどの言葉を、私は持っていなかった。
そっと、現実から目を逸らすようにして、その場をやり過ごす。
配架の途中、書架の端で立ち止まる。
分類番号の末尾が、ほんの少しずれている本があった。
誰かが急いで戻したのだろう。
正しい位置に戻すべきだ。
そう思いながら、私は一瞬、指を止めた。
ずれていても、探せないほどではない。
致命的な誤りではない。
今、私が直さなくても、誰かが気づくかもしれない。
そんな考えが、胸の奥で、静かに芽を出す。
私は、その本をそのままにして、次の本へ進んだ。
訂正しない癖がある、と自分で思う。
間違いに気づいても、それを指摘するまでに、時間がかかる。
正しさを主張するよりも、流れを保つほうを、無意識に選んでしまう。
それは、ここで働くようになってから、強くなった気がする。
制度は、個人の声を必要としない。
決められたことを、決められた通りに行えば、問題は起きない。
訂正は、逸脱のあとにだけ、事後的に求められる。
配架を終え、台車が空になる。
私は、時計を見る。十一時半。昼前になっていた。
だが、勤務時間は、まだ半分も残っている。
カウンターに戻ると、利用者から声をかけられる。
「すみません、この本はどこにありますか」
検索端末でタイトルを入力し、分類番号を伝える。
それだけで、会話は終わる。
ときには、所蔵されている箇所まで案内することもあるが、それはカウンターが混み合っていないときだけだ。
名前を名乗ることも、雑談をすることもない。
私は、ふと、フクロウの声を思い出す。
名乗りはあるけれど、名前は明かされない。
それでも、あちらのほうが、私に向けられている声だと感じてしまう。
昼休みになり、私はそそくさとスマートフォンを取り出す。
フクロウからの通知はない。
それを確認して、少しだけ安心する。
届いていないことが、関係が続いている証拠のように思えた。
午後の配架中、別の職員が声を落として話しかけてくる。
「来年度、配置変わるかもしれないって」
かもしれない。
不確定要素を含んだその言葉は、この場所でよく使われる。
確定を避けるための、便利な緩衝材。
言葉にクッションをつけることで、人間関係も、衝突を避ける方向へ丸め込まれていく。
私は、「そうなんですね」と答える。
それ以上、聞き返さない。
訂正しない。
深掘りしない。
その態度は、防御でもあり、癖でもあった。
本当は、「どこの配置になるんですか」とか、「場所によっては忙しくなりますね」とか、続けたい言葉はいくつもあった。
けれど、それらは声になる前に、空中でほどけていく。
夕方、図書館が閉館に近づくと、音はさらに少なくなる。
本が動く音、人が歩く音。
すべてが、終わりに向かって、丁寧に均されていく。
私は、最後にもう一度、棚を見渡す。
午前中に気づいた、少しずれた本は、そのままだった。
それを正しい位置に戻すことは、今からでもできる。
ほんの数秒で済む。
けれど、私は、そのまま電気を落とす側に回った。
訂正しないことは、間違いを見逃すことではない。
ただ、変えないという選択をすることだ。
図書館を出ると、外はまだ明るかった。
スマートフォンを取り出し、イヤホンを耳に入れる。
再生は、まだしない。
現実の生活は、こうして、静かに続いている。
音を立てず、名前を呼ばれず、期限だけを抱えながら。
それでも、声を待つ余地は、確かに残っていた。
第5章 生活音
最初に変わったのは、声ではなかった。
フクロウの声は、相変わらず低く、落ち着いていて、感情の起伏をほとんど含まなかった。
言葉の選び方も、話す速さも、これまでと大きくは変わらない。
ただ、その奥に、音が増えた。
―こんにちは。フクロウです。
再生した瞬間、かすかな反響があった。
天井の高い場所か、壁の多い空間で話しているような、わずかな響き。
以前は、彼の声の背景は、ほとんど無音だった。
静かな車内か、誰もいない部屋で録音しているのだろうと、私は勝手に想像していた。
けれど、その日は、違った。
声の向こうで、何かが鳴った。
乾いた音。硬いものが床に触れる気配。
少し遅れて、布が擦れるような音。
「……」
フクロウは、特に説明をしなかった。
私も、何も言わなかった。
音は、偶然入り込んだだけかもしれない。
録音ボタンを押す前に、環境を整えなかっただけ。
そう思おうとすれば、いくらでも理由はつけられた。
それでも、その音は、確かに彼の生活の一部として、私の耳に届いていた。
別の日には、別の音がした。
―こんにちは。今日は、少し移動が多い一日でした。
言葉の合間に、低いエンジン音。
一定の速度で流れる風切り音。
ウインカーの音が、一度だけ、短く鳴った。
車の中だ、とすぐに分かった。
ラジオの音は入っていなかった。
代わりに、道路の継ぎ目を越えるたび、微かに上下する音の揺れがあった。
私は、イヤホンをしたまま、歩道に立ち止まった。
信号が変わるのを待ちながら、その音を聞いた。
彼は、どこへ向かっているのだろう。
仕事なのか、帰宅なのか、それとも、まったく別の場所か。
――もしかしたら、私の家の近く。
その考えが浮かんだ瞬間、現実がこちらに踏み込んできすぎたような気がして、背中がわずかに冷えた。
距離が縮まるというより、境界が曖昧になる感覚。
それは、親密さというより、薄気味悪さに近かった。
いくつもの可能性が、頭の中を過ぎる。
けれど、考えかけて、やめた。
考えても、答えは出ない。
そして、私の中で、答えを求めないことが、この関係の前提だった。
生活音は、徐々に増えていった。
食器が触れ合う音。
水道の蛇口をひねる音。
電子音。短い通知音。
そして、ある日、はっきりと、子どもの声が入った。
高く、短い声。
意味のある言葉ではなく、音に近い叫び。
私は、無意識のうちに再生を止めた。
ほんの少しだけ巻き戻し、もう一度、再生する。
同じところで、同じ声が聞こえる。
偶然ではない。聞き間違いでもない。
「……」
フクロウは、その声について、何も言わなかった。
咳払いをすることもなく、録音を止めることもなく、話し続けていた。
その自然さが、かえって現実だった。
彼の生活の中では、その声は、説明を必要としない音なのだ。
私は、何度か、問いかける文を頭の中で作った。
「今のは?」
「お子さんですか?」
「一緒に住んでいるんですね?」
けれど、それらは、どれも声にならなかった。
訂正しない癖は、ここでも、私を守った。
あるいは、私を縛った。
知らないままでいること。
聞かないことで、壊さないこと。
私は、その選択を、もう何度も繰り返していた。
フクロウの声は、変わらない。
―最近、少し忙しくて。返信が遅れてしまって、すみません。
謝罪の言葉はあっても、理由はなかった。
忙しさの中身は、音としてだけ、滲み出る。
複数の足音。
遠くで閉まるドア。
短く鋭い呼びかけ。
仕事の現場なのか、家庭の中なのか、判断はつかない。
その曖昧さが、かえって、彼の輪郭を太くしていた。
声だけの関係だったはずなのに。
私は、いつのまにか、音の量で、彼の一日を測ろうとしていた。
今日は、音が多い。それに、少しだけ声ががさついている。
今日は、静かだ。フクロウの声も、小声になっているような気がする。
それは、関係が深まったからではない。
ただ、私の耳が、慣れてしまっただけだ。
ある夜、私は、自分の部屋で録音をした。
―こんにちは。カナリアです。
録音ボタンを押したあと、私は、わざと少しだけ間を置いた。
その間に、冷蔵庫のモーター音が、微かに入る。
遠くを走る車の音も、混じる。私は、自分の生活音を、消さなかった。
それは、返答でも、主張でもない。
ただ、同じ平面に立とうとしただけだった。
フクロウは、そのことについて、何も言わなかった。
次のメッセージも、いつも通りの速さで、届いた。
説明は、最後まで、なかった。
家庭についても、仕事についても、年齢についても。
ただ、音だけが増え、重なり、消えていく。
私は、その音を、否定も肯定もせず、受け取った。
声は、画面の向こうから届くものだと思っていた。
けれど、今は違う。
声は、生活の隙間から、こぼれ落ちてくる。
それを拾い上げているのが、私なのか。
それとも、ただ通過させているだけなのか。
その違いを、私は、まだ言葉にできなかった。
イヤホンを外すと、部屋は静かだった。
私は、はっきりと、一人だった。
私の生活音は、私にとっては、相変わらず説明不要のものだった。
彼と同じように。
それでも、再生ボタンの向こう側にある音は、確実に、私の中に残っていた。
音は、突然消えたわけではなかった。
少しずつ、減っていった。
最初は、気のせいだと思った。
たまたま静かな場所で録音していただけ。
たまたま、周囲の音が入らなかっただけ。
そう説明することは、いくらでもできた。
―こんにちは。フクロウです。
声は、いつも通りだった。
低く、落ち着いていて、感情を押しつけてこない。
話す速さも、長さも、これまでと変わらない。
ただ、その背後が、妙に澄んでいた。
反響がない。
足音も、風切り音もない。
あれほど頻繁に混じっていた、生活の粒子が、きれいに削ぎ落とされていた。
私は、再生を止めずに、最後まで聞いた。
聞き終えても、すぐには録音しなかった。
耳の奥に残るのは、声よりも、何もない時間だった。
沈黙は、音がないことではない。
音があったはずの場所に、何もないことだ。
次のメッセージも、同じだった。
無音に近い背景。
整理されすぎた声。
まるで、最初から、こうだったかのように。
私は、過去のメッセージを遡った。
カチャカチャーー食器の音。
ごうごうと、低くうなるエンジン音。
キャッキャッと形容できないが、おそらく子どもの声。
確かに、そこにあった。
それらは、削除されたわけではない。
ただ、今は、届かない。
音が増えたとき、私は、何も尋ねなかった。
では、音が減ったときは、どうすればいいのだろう。
―最近は、少し落ち着いています。
フクロウは、そう言った。
それ以上の説明はなかった。
落ち着いた、という言葉の内側に、何が含まれているのか。
何が終わり、何が整えられたのか。
私は、聞かなかった。
訂正しない癖は、沈黙の前では、輪郭を変える。
以前は、壊さないための選択だった。
今は、確かめないための言い訳に近かった。
私は、自分の録音をした。
―こんにちは。カナリアです。
わざと、間を置かなかった。
冷蔵庫の音も、車の音も、入れなかった。
生活音を、消した。
声だけを、残した。
同じ速さ。
同じ長さ。
同じ関係。
けれど、再生したとき、私は、はっきりと違和感を覚えた。
声が、浮いている。
今まで支えていたはずの、支えるものが、ない。
生活音は、関係を深めるためのものではなかった。
あれは、ただ、存在の重さだったのだと、ようやく分かった。
ある日、フクロウからのメッセージが届かなかった。
一日。
二日。
理由は、分からない。
私は、待つことに、慣れていた。
けれど、その待ち時間に、音がないことには、慣れていなかった。
沈黙は、説明を拒まない。
ただ、答えを与えないだけだ。
三日目の夜、通知音が鳴った。
―こんにちは。遅くなってすみません。
それだけだった。
声は、相変わらず同じだった。
背景は、無音だった。
私は、その声を聞きながら、初めて、関係の速さを意識した。
同じ速さで進んでいると思っていたものが、
実は、同じ場所に留まっていただけかもしれない。
音が減ると、欠落が際立つ。
何が失われたのかは、分からない。
けれど、何かが戻らないことだけは、分かる。
イヤホンを外すと、部屋は静かだった。
静かすぎて、私の呼吸音だけが、はっきりと聞こえた。
沈黙は、相手のものではない。
私の中にも、同じだけ、溜まっていた。
それを破る言葉を、私は、まだ持っていなかった。
第6章 分類不能
延滞本は、いつも静かに戻ってくる。
カウンターに差し出されるときも、返却ポストから回収されるときも、音は立てない。
けれど、記録には、はっきりと残る。
期限を過ぎた日数。
貸出回数。
返却予定日。
私は、それらを淡々と処理する側だった。
バーコードを読み取り、画面を確認し、必要があれば一言だけ添える。
「次回からは、期限内にお願いしますね」
それ以上は、言わない。
利用者の延滞には、理由があるかもしれない。
体調を崩したのかもしれないし、仕事が立て込んでいたのかもしれない。
あるいは、ただ忘れていただけかもしれない。
けれど、延滞の理由は、制度の中には含まれていない。
図書館は、分類の場所だ。
私は、そう感じている。
本は、必ず「どこか」に属している。
属さないものは、原則として、受け入れられない。
それでも、ときどき、返却できない本がある。
破損してしまった本。
水に濡れて、波打ったページ。
ページの一部が欠けているもの。
利用者が、返却カウンターの前で立ち尽くし、言葉を探す時間。
きっと、その本は、利用者の生活の中で起きた出来事に、巻き込まれてしまったのだろう。
私は、その沈黙に、慣れていた。
こちらから問い詰めることはしない。
説明を求めるのは、私の役割ではない。
「弁償になりますね」
その一言で、関係は、事務的に終わる。
非正規、更新、期限。
私にとって、それらの言葉は、書架よりも、私の側に近い場所にあった。
年度末が近づくと、契約の話が出る。
更新されるかどうかは、直前まで分からない。
理由は、説明されない。
制度上、そういうものだ。
けれど、説明されないからこそ、怖い。
私は、訂正しない癖を、ここでも使っていた。
「いつまでですか」とは聞かない。
「来年はどうなりますか」とも聞かない。
聞いたところで、答えは決まっていないか、
決まっていても、教えられない。
それなら、最初から、分類しないほうが楽だった。
カウンターの内側で、私は、ずっと同じ場所に立っている。
移動は、していない。
ただ、時間だけが、先に進んでいく。
ある日、返却ポストの中から、一冊の本が出てきた。
返却期限は、三年前。
利用者情報は、すでに無効になっている。
私は、その本を手に取ったまま、少し考えた。
延滞として処理することは、できない。
返却済みにすることも、できない。
誰のものでもなく、
けれど、確かに、ここにある。
分類不能。
書架に戻すこともできず、廃棄にも回せない。
一時的に、事務室の棚に置く。
「後で対応するもの」の列に、静かに加える。
後で、という言葉は、便利だ。
期限を、曖昧にする。
私は、その本を置いた棚を、何度も通り過ぎた。
今日ではない。
今ではない。
そうやって、時間だけが、延びていく。
フクロウからのメッセージも、同じだった。
返却できないまま、溜まっていく感覚。
終わっていないけれど、進んでもいない。
―こんにちは。フクロウです。
声は、変わらない。
背景は、相変わらず静かだ。
私は、その静けさを、
安心だと思うことも、もうできなかった。
音がないことは、整っていることではない。
ただ、動いていないだけだ。
書架整理の途中、私は、久しぶりに移動用の台車を押した。
金属が床を擦る音。
普段は気にも留めない、その音が、やけに大きく聞こえた。
台車は、重い。
一度動かし始めると、止めるほうが難しい。
移動する、という行為は、力が要る。
留まることのほうが、ずっと簡単だ。
私は、ふと思った。
このまま、ここにいれば、
私は、どこにも分類されないまま、
延滞し続けるのではないか。
契約書に書かれているのは、開始日と終了日だけだ。
その間に、何をしていたかは、残らない。
帰り道、駅のホームで、私は、行き先表示を眺めた。
電車は、必ず、どこかへ向かっている。
途中下車は、できる。
乗り換えも、できる。
移動は、制度の中で、許可されている。
私は、イヤホンを外した。
フクロウの声は、聞かなかった。
代わりに、アナウンスの音を聞いた。
「まもなく、電車がまいります」
その言葉は、誰に向けられたものでもない。
それでも、確実に、移動の予告だった。
返却できない本は、まだ、事務室の棚にある。
けれど、私は、その存在を、忘れてはいなかった。
分類不能なものは、不要なのではない。
ただ、次の置き場所が、まだ決まっていないだけだ。
そのことを、私は、
ようやく、自分に対しても、適用し始めていた。
第7章 未定
通知は、予告なく届いた。
封筒でも、改まった呼び出しでもなかった。
業務用の端末を立ち上げたとき、画面の隅に表示された短い文面。
事務的で、感情を含まない文章だった。
来年度の雇用については、現在未定です。
それだけだった。
理由も、期限も、補足もない。
私は、画面を閉じなかった。
すぐに閉じてしまえば、なかったことにできそうな気がして、しばらく、その文字列を眺めていた。
未定。
決まっていない、という意味。
決められていない、という意味。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
更新されない、とは書かれていない。
更新される、とも書かれていない。
私は、問い返さなかった。
「いつ頃決まりますか」
「可能性はどのくらいありますか」
「他に探したほうがいいでしょうか」
そうした言葉は、すぐに思いついた。
けれど、どれも、画面に向かって打ち込むことはしなかった。
問い返すことで、状況が変わるとは思えなかった。
むしろ、言葉にした瞬間に、何かが確定してしまう気がした。
未定のまま、置いておく。
分類しない。
判断を保留する。
それは、これまで何度も選んできた態度だった。
配架の時間になり、私は、いつも通り台車を押した。
棚の並びは変わらない。
分類記号も、背表紙の色も、昨日と同じだ。
制度は、私の内側の揺れには関心を示さない。
決められた手順を、決められた順番で行えば、仕事は進む。
私は、午前中のうちに、ほとんどの本を棚に戻した。
途中で、ふと、端末の通知文が頭をよぎったが、それ以上、考えなかった。
考えることと、動くことは、別の場所にある。
少なくとも、この場所では。
昼休み、スマートフォンを確認すると、フクロウからの通知が届いていた。
―こんにちは。フクロウです。
再生する前に、私は、少しだけ躊躇した。
理由は分からない。
けれど、再生すれば、声は変わらないと、分かっていた。
イヤホンを耳に入れ、再生ボタンを押す。
―こんにちは。今日は、こちらも少し冷え込んでいます。季節の変わり目ですね。ところで、私は、本を読むことが好きなのですが、カナリアさんは、最近決まった芥川賞の本をすでに読んでいましたか?私は、中々読めていないのですが、巷では好評で……―
低く、落ち着いた声。
話す速さも、間の取り方も、これまでと同じだった。
背景は、静かだった。
生活音は、ほとんど入っていない。
私は、そのことに、少しだけ安堵した。
音が増えないことが、今は、変化が起きていない証拠のように感じられた。
それに、本の話題が出たことが嬉しかった。図書館に勤めたきっかけの根本は、本が好きという気持ちがあるからだ。彼と同じ話題を共有できるということに、ほんの少し体温が上がる。
彼の声は、未定ではなかった。
更新も、期限も、表示されない。
ただ、同じ調子で、同じ距離から、届いてくる。
私は、聞き終えたあと、すぐには録音しなかった。
昼休みの残り時間を確認し、窓の外を見る。
図書館の前の通りを、人が行き交っている。
誰もが、どこかへ向かって歩いている。
私は、問い返さない。
職場にも、フクロウにも。
問い返さないことで、関係は保たれている。
少なくとも、今の形のままでは。
―こんにちは。カナリアです。
録音を始める。
声の調子を整える。
長さは、これまでと同じくらい。
―音声、聞きました。季節の変わり目ですね。こちらも、少し肌寒くなってきました。芥川賞候補の本、私は読みました。私は、どの本が芥川賞を獲るか予想するのですが、今年は豊作で、中々難しかったですね。
未定については、触れない。
更新についても、仕事についても、言わない。本のことは、嬉しかったので、ほんの少し声が上ずってしまった。
説明しないことは、隠すことではない。
ただ、言葉にする準備が、まだ整っていないだけだ。
フクロウの声は、最後まで、変わらなかった。
問いを促すような間も、気配もない。
それが、この関係の均衡だった。
勤務終了後、私は、ロッカーの前で立ち止まった。
名札を外し、鞄にしまう。
明日も、ここに来る。
来月も、来年も――それは、未定だ。
けれど、声は、今夜も届くかもしれない。
更新未定。
行き先未定。
それでも、再生ボタンの位置だけは、変わらない。
私は、イヤホンを指でなぞりながら、
未定のまま、歩き出した。
変化は、まだ、起きていない。
ただ、その兆しだけが、
制度と声のあいだに、静かに差し込まれていた。
第8章 長い沈黙
最初に途切れたのは、言葉ではなかった。
録音だった。
フクロウからのメッセージを聞き終えたあと、私は、いつも通りイヤホンを外し、スマートフォンを伏せた。
すぐに返す必要はない。
少し間を置いてから、同じくらいの長さで返す。それが、これまでの速さだった。
けれど、その日は、録音ボタンを押さなかった。
理由は、はっきりしていない。
疲れていたわけでも、忙しかったわけでもない。
声が出なかった、というほど大げさなことでもなかった。
ただ、録音を始める「きっかけ」が、見つからなかった。
時間だけが過ぎていく。
数分。
数時間。
その間、スマートフォンは何度も視界に入ったが、手に取るたび、私は画面を消した。
フクロウの声は、いつもと同じだった。
―こんにちは。フクロウです。
低く、落ち着いた調子。
感情の起伏を含まない声。
―今日は、特に変わったことはありませんでした。
背景は静かで、生活音もほとんど入っていない。
あの頃の、音が増える前の状態に戻ったようだった。
私は、それを聞いて、少しだけ安心した。
同時に、取り残されたような気持ちにもなった。
変わらない声。
変わらない速さ。
変わらない距離。
それは、これまで「安心」と呼んでいたものだった。
けれど、今は、その均一さが、私ひとりを浮かび上がらせているように感じられた。
私は、返さなかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎる。
フクロウから、追い立てるような連絡は来なかった。
―こんにちは。
―お忙しいでしょうか。
そうした言葉は、一切なかった。
代わりに、三日目の夜、また同じ調子のメッセージが届いた。
―こんにちは。フクロウです。
―少し、こちらは冷えています。
まるで、私の沈黙に気づいていないかのように。
あるいは、気づいていても、触れないという選択をしているかのように。
私は、再生を止めたあと、しばらく動けなかった。
沈黙は、共有されていなかった。
私の沈黙は、私の側にだけ溜まっていく。
関係は、対等だと思っていた。
同じ長さで話し、同じ速さで返し、同じ距離を保っている。
けれど、それは、形式が揃っていただけだった。
彼は、沈黙の影響を受けない。
私は、沈黙の中に沈んでいく。
その非対称性が、はっきりと形を持ったのは、そのときだった。
私は、声を返さないことで、関係を止めたつもりでいた。
けれど、実際には、止まっていたのは、私だけだった。
フクロウの生活は続く。
声も、速さも、一定のまま。
私は、録音されない時間の中で、自分の生活音を聞いていた。
冷蔵庫の音。
遠くを走る車の音。
壁の向こうの、誰かの足音。
それらは、誰にも送られない。
再生される予定もない。
イヤホンを手に取る。
耳に入れる。
けれど、再生も、録音も、しない。
沈黙は、切断ではなかった。
ただ、向きが一方通行になっただけだ。
私は、初めて、そのことを、はっきりと理解した。
声は、画面の向こうから、一定の調子で届き続ける。
けれど、それを「関係」と呼ぶためには、
こちら側の声が、必要だった。
長い沈黙の中で、
私は、自分が、
関係を保つ側だったのだと、
遅れて気づいていた。
第9章 残留
残っている、という感覚が、いつから重くなったのかは分からない。
ここにいる、というだけで、何かを選び続けている気がした。
朝、目覚ましより先に目が覚めることが増えた。
音はない。
けれど、起きてしまった以上、眠り直す理由も見つからない。
冷蔵庫を開ける。
中身は、減っているわけでも、補充されているわけでもない。
買い足すべきものは、いくつかあるはずなのに、思い浮かばない。
私は、期限が切れた牛乳を、そのまま流しに捨てた。
匂いを確かめることもしなかった。
確かめる、という行為が、今の私には、少し面倒だった。
図書館へ向かう道は、変わらない。
駅までの距離。
改札の位置。
階段の段数。
すべて、身体が覚えている。
けれど、身体が覚えているということは、考えなくていい、ということでもある。
私は、考えないまま、同じ場所に立ち続けている。
職場では、小さなほころびが増えていた。
書架整理の順番を、一段、飛ばしてしまう。
返却処理の画面を閉じ忘れる。
利用者に渡すレシートを、逆向きに差し出す。
どれも、致命的ではない。
注意されるほどでもない。
けれど、「慣れているはずの人」の動きとしては、少しだけ、ずれていた。
同僚が、何気なく言った。
「最近、疲れてます?」
私は、首を横に振った。
疲れている、という言葉も、正確ではない気がした。
疲労は、回復を前提にしている。
今の状態は、そうではなかった。
昼休み、職員用の休憩室で、私は、窓の外を見た。
この街は、地元ではない。
けれど、地元よりも長く、ここにいる。
地元の名前を、口にする機会は、ほとんどなくなった。
帰省、という言葉も、使わない。
帰る場所、という感覚が、曖昧になっていた。
地元に残った友人たちは、すでに別の生活をしている。
結婚。
子ども。
家。
私は、そのどれにも、属していない。
属していないことを、特別だと思っていた時期は、もう終わっていた。
ただ、戻れない。
戻ろうとすれば、理由を説明しなければならない。
なぜ、今なのか。
なぜ、ここを離れるのか。
私は、説明をしない癖を、ここでも使っている。
フクロウの声は、届き続けていた。
再生は、する。
けれど、返さない。
―こんにちは。フクロウです。
その声は、私の生活の中に、静かに残留している。
切ることもできず、繋ぐこともできない。
音は、もう、情報ではなかった。
ただの存在になっている。
夜、部屋に戻ると、私は、地元から持ってきたままの段ボールを開けた。
開けたことがあるかどうかも、思い出せない箱。
中には、大学時代のノート。
使わなかった教科書。
履かなくなった靴。
どれも、捨てる理由がない。
けれど、使う理由もない。
私は、その箱を閉じた。
閉じる、という行為だけで、何かを先送りにした気になれた。
ただ、閉める直前に、思い出の匂いがした。締め切り直前のレポートを仕上げるために、閉館前まで大学の図書館にこもっていた日々。引っ込み思案の私は、中々大学で打ち解けることができず、外のベンチで一人座り弁当を食べていた。いや、大学だけではない。高校でも、中学でも変わらずそうだった。
教科書を捨てずにおいているのは、授業時間の間だけは、「授業を受けている生徒」になれていたからだ。
残っているものは、過去ではない。
選ばれなかった未来だ。
私は、そのことを、はっきりと意識してしまった。
移動しなかった結果、
私は、今いる場所に、
過去ごと、残っている。
終章が近い、という予感だけが、
生活の底に、静かに溜まっていく。
何も起きていない。
それでも、これ以上、同じままでは、いられない。
その確信だけが、
まだ名前を持たないまま、
ここに、残留していた。
第10章 通知
通知は、音ではなく、画面の揺れとして来た。
机の上に伏せていた端末が、わずかに振動した。それだけで、部屋の空気が一段階下がった気がした。冷える、というより、抜ける。何かが抜けて、残りが輪郭を失う。
画面を伏せたままにしていたのは、意識的ではなかった。
ただ、配架の途中で見つけた分類不能の本を、いったん台車の隅に置いたときと同じ動作だった。後で戻るつもりのもの。すぐには処理できないもの。
振動は一度きりだった。
それが、彼の規則だった。
端末を裏返す。
アプリの通知欄に、短い文が表示されている。
——しばらく、録れなくなる。
それだけだった。
理由も、期間も、挨拶もない。
音声ではなく、文字だった。
文字にされた瞬間、声は過去形になる。
それを、彼女は知っていた。
録音は、時間を留めるふりをする。
再生は、同じ速さを装う。
けれど文字は、いつも一方的だ。こちらの再生速度を考慮しない。読む側の呼吸を待たない。
——しばらく。
その言葉は、図書館の掲示板にもよく貼られている。
「しばらくの間、閲覧を制限します」
「しばらく閉架とします」
戻る保証のない仮置き。
彼女は返信しなかった。
問い返さない癖が、ここでも発動した。
「どのくらい?」
「どうして?」
「終わり、ということ?」
どれも、送信欄の手前で形にならなかった。
問いは、関係を進めるための道具だ。
彼女たちは、進まないことに、慣れすぎていた。
端末を置き、窓を開ける。
夜の音が、想定よりも多かった。車の走行音、遠くのテレビ、上階の足音。
フクロウの生活音に似ている、と一瞬思い、すぐに訂正する。
似ていない。
似ていると思ったこと自体が、誤りだった。
彼の音は、選ばれていた。
録音されるための音。
生活から切り取られ、角を丸められた音。
子どもの声も、食器の触れ合いも、咳払いも、いつも少しだけ遠かった。
中心に置かれるのは、一定の声量と、一定の速度だけだった。
——録れなくなる。
録音が止まるということは、声が消えることではない。
彼は、これからも話すだろう。誰かに。
ただ、それが彼女に届かなくなるだけだ。
その非対称性が、ここで初めて確定した。
彼女は、図書館の更新通知を思い出す。
「次回更新は未定です」
否定ではない。終了とも言わない。
だが、待つ側にのみ時間を消費させる文言。
端末を持ち上げ、過去の録音を再生する。
一番新しいもの。
昨日の声。
——今日は、特に変わりないよ。
その一定さが、今は不自然だった。
変わらないことが、変化として浮かび上がる。
彼女は再生を止める。
もう一度は聴かなかった。
分類不能の本は、まだ台車の隅にある。
返却期限を過ぎた本のように、誰のものでもなく、しかしここに存在している。
移動、という言葉が、頭をよぎる。
引っ越しでも、転職でもない。
ただ、ここにいられなくなる予感。
通知は消えない。
画面に残り続ける。
音を持たないまま。
夜が深くなるにつれ、彼女の部屋から音が減っていく。
意図的ではない。
ただ、何も足さなくなる。
カナリアは、夜を渡れない。
それを、初めて、自分のこととして理解した。
声が止まるのではない。
彼女の側から、聴く場所が失われる。
通知は、それを告げただけだった。
第11章 移動
段ボールは、部屋の隅に積まれていった。
大小が揃っていないのは、計画性がなかったからではない。揃える必要がないと判断しただけだった。
本から先に詰める。
重さのあるものは、底に入れると教わった記憶がある。誰に教わったのかは覚えていない。
背表紙の色が似たもの同士を寄せる癖が、ここでも出た。分類というより、配慮に近い。
一冊、手が止まる。
返却期限のカードが挟まったままの本だった。
図書館の本ではない。
借りた覚えのない、しかし確かに手元に残っている本。
読みかけで、途中に栞代わりのレシートが挟まっている。
返そうと思えば返せた。
場所も、担当者も、手順もわかっている。
それでも、この本だけは箱に入れなかった。
返却できない本、という分類が、頭の中にできる。
制度の外に落ちたもの。
紛失でも、私物でもない。
端末は、充電コードを抜いてから箱に入れた。
通知は、まだ画面に残っている。
開かないまま、電源を落とす。
説明しない、という選択は、いつからか準備されていた。
問い返さない癖と、同じ系列にある。
理由を言葉にすると、それは共有される。共有されると、関係が発生する。
彼女は、それを持ち運びたくなかった。
最後に、部屋を見渡す。
音は、ほとんどない。
冷蔵庫の低い振動と、遠くの車の音だけが残っている。
フクロウの生活音を思い出そうとして、やめる。
思い出す必要はない。
録音が止まった時点で、それはすでに過去の配置だ。
ドアを閉める。
鍵をかける。
その動作に、感情は付随しなかった。
移動は、始まりではない。
終わりでもない。
ただ、位置が変わる。
段ボールの中に、返却できない本が一冊残っている。
それを、どこで開くかは決めていない。
カナリアは、夜を渡れない。
だから、夜が終わる前に、場所を変える。
説明は、しないまま。
終章
朝と呼ぶには早すぎる時間に、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ白に近い。
昼でも夜でもない、この時間帯が、私は嫌いではなかった。
目覚ましは鳴っていない。
鳴らす必要がなくなってから、しばらく経つ。
床に置いたままの段ボールは、まだ開けていないものと、すでに役割を終えたものが混在している。
どれも、どこに置くべきかは決まっていない。
移動してきた、という実感は薄かった。
住所が変わっただけで、生活は続いている。
続いている、という言葉が正しいのかどうかは分からない。
台所で、湯を沸かす。
カップの中で、ティーバッグがゆっくり沈む。
その動きを見ていると、時間が一定の速度で進んでいることだけは、確かだと思えた。
音がある。
湯の沸く音、換気扇の低い回転音、遠くで鳴る電車の走行音。
どれも、ここでは私に向けられていない。
フクロウの声は、聞こえない。
録音は、再生されないまま、端末の中に残っているはずだ。
消してはいない。
消す、という行為には、決断が要る。
声は、変わらなかった。
最後に聞いたときも、最初と同じ調子だった。
生活がどれほど変わっても、声だけは一定だった。
それが、安心だったのかどうかは、今も判断できない。
安心と停滞は、似た音をしている。
テーブルの端に、あの本が置いてある。
返却できない本。
図書館の本ではなく、私物とも言い切れない。
ページの角が、少し折れている。
それは、誰かが触れた痕跡ではなく、私自身の手癖だった。
制度の中では、返却できないものは、異物として扱われる。
処理方法は、用意されていない。
用意されていないものは、棚の端に置かれ、「後で」に回される。
私は、長い間、その「後で」を引き受ける側だった。
期限を示し、記録を残し、判断を保留する。
それが、仕事だった。
今は、誰も私に期限を示さない。
更新未定の通知は、すでに効力を失っている。
終わった、とは言えない。
始まった、とも言えない。
ただ、続いている。
説明しないまま、ここに来た。
誰にも理由を告げず、問い返されることもなかった。
説明されない側の沈黙が、どれほど重いかを、私は知っているはずだったのに。
それでも、言葉にしなかった。
言葉にした瞬間、物語になる。
物語になると、理解される。
理解されることは、必ずしも、救いではない。
フクロウとの関係も、名前を持たなかった。
始まりも、終わりも、明確には定義されていない。
録音と再生という形式だけが、関係の速度を保っていた。
同じ速さでいること。
進まないこと。
それは、選択だったのか、結果だったのか。
長い沈黙の間、私は何度も、再生ボタンに触れかけて、やめた。
触れない、という行為も、選択に含まれる。
カナリアは、夜を渡れない。
それは、能力の話ではない。
構造の話だ。
夜は、連続している。
始まりと終わりの境界が、曖昧だ。
渡るには、区切りが必要になる。朝と夜を分けて、決断をしなければならない。
私は、区切らないことを選んできた。
分類しない。
訂正しない。
問い返さない。
それらはすべて、動かないための技術だった。
それでも、台車を押したとき、身体は、確かに移動していた。
力をかけなければ、物は動かない。
動かしたあと、元の位置に戻すほうが、ずっと大変だ。
今も、私は、どこかに留まっている。
同時に、どこにも属していない。
返却できない本は、まだ、開かれていない。
読むかどうかも、決めていない。
棚に置く場所も、決めていない。
決めない、という状態が、続いている。
窓の外で、鳥の声がした。
カナリアかどうかは、分からない。
確かめる必要もない。
夜は、やがて終わる。
終わるからといって、朝が解決を運んでくるわけではない。
私は、今日も、説明しない。
そして、移動したまま、ここにいる。
終わっていない。
けれど、戻ってもいない。
それだけが、今、確かなことだった。
*
(詩)
聞こえる、聴こえる
あなたの声が、私というフィルターを通して
宙ぶらりんの私は
どこにも属さない
宿り木を知らないカナリア
過去の声が、遅れてやってくる
温かさに包まれたまま
保存された時間として
ときに、冷酷に
静寂と
淡々とやってくる
羽ばたく、はばたく
けれど
私は、夜を知らない
一日に境界をつけると
とたんに
輪郭がほどけてしまうから
朝と夜のあいだ
再生と停止のあいだ
私は、同じ位置に立ち尽くす
人は、声から忘れていくらしい
顔よりも
言葉よりも
先に
あの日の君の声も
もう、正確には
思い出せなくなってしまった
低かったか
間があったか
笑っていたか
それでも
確かに
届いていた、という感触だけが残る
そんなふうに
できている
わたしたち
記録は残り
音は消え
意味だけが
宙に浮かぶ
分類できないまま
返却もされず
それでも、破棄されない
声は
誰のものでもなくなり
それでも
誰かを通過する
私は
渡れない夜の手前で
何度も
再生を選ぶ
進むことでも
戻ることでもなく
ただ
遅れて届くものを
受け取るために
そうして
進んでいく
わたしたち
更新日:2026/2/16 ©二藤瑠花
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