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二藤瑠花の落としもの

Hello world!

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こんにちは。

今まで、XやInstagram、noteに作品を投稿し続けていましたが、自分のサイトを持つことにあこがれを持ってしまい、勢いで作りました。このご時世にニーズがあるのかどうか、なんて、知ったものではないけれども、ただ、好きなように好きなことをやっています。そのことに対して、よろしく思わない人もいるかもしれませんが、私なりの創作スタイルとしてやっていこうかと思います。

小さなころから、手先は器用だったらしい私は、絵を描くことが好きでした。音楽もフルートをやったりとしましたが、長続きはしませんでした。大学時代に、先輩を見習うように書き始めた詩は、思いついたことをまとめることが、どうやら私に合っていたらしいです。詩を読んで、読者がどう思うか、よりも、頭の中のごちゃごちゃをまとめるための一つのツールとして詩がありました。

私に、詩を進めてくれた先輩は、大学の卒業論文で最果タヒさんの作品をテーマにしていました。文学系の卒業論文は、参考文献が多くある文豪(近現代作家など)を選ぶことが多いらしいですが、詩を愛していた先輩は、詩の中でも、ネット詩、現代詩を書いている作家さんで書くと決めたようです。

つい最近、私は、ネット詩というジャンルがあることを知りました。そして、そこでは、盛んにネット詩人として活動する方が多くいるということも。なんだか、紙の媒体で読む小説家や、詩人と違い、読者と距離が近い存在であることが、とても新鮮でした。私も、ネット詩を書き始めてから気づいたことはたくさんあります。

「ネット詩」という言葉を知ってから、私は、自分がやってきたことに、ようやく輪郭が与えられた気がしました。

これまで私は、XやInstagram、noteに、ただ“置いていく”ように詩を投稿していました。反応があれば嬉しいけれど、それを目的にはしていない。どちらかといえば、タイムラインという川に、紙片を流している感覚でした。けれど、ネット詩という文脈を知ったことで、その行為は「無名の独白」ではなく、「ある潮流の一部」なのだと気づきました。

先輩が卒業論文のテーマに選んだ 最果タヒ さんは、まさに紙とネットの境界を軽やかに越えてきた詩人のひとりです。書店で詩集を手に取る読者もいれば、SNSで言葉に出会う読者もいる。文字の配置や改行が、画面の中で呼吸をする。そのあり方は、私が日々目にしているタイムラインの風景と地続きでした。

ネット詩の面白さは、「公開」と「未完成」が同時に存在するところにあるのかもしれません。

紙の詩集は、推敲を重ね、装丁が決まり、完成形として世に出ます。けれど、ネットに投稿する詩は、書いたその日の温度を保ったまま、世界に触れる。あとから書き直すこともできるし、削除することもできる。読者のコメントやリアクションによって、詩の意味が微妙に揺れることもある。その揺れ込みで、作品が存在している。

私は、詩を「読者のため」に書いているわけではありません。けれど、読者がいることで、言葉は自分の内側だけのものではなくなります。誰かの解釈に触れたとき、自分の頭の中では見えていなかった光が当たることがあります。自分のごちゃごちゃを整理するためのツールだったはずの詩が、他者のごちゃごちゃにも触れているのだと知る瞬間があります。

それは少し怖くて、でも、とても尊いことです。

自分のサイトを作ったのも、その「距離感」を自分で選びたかったからかもしれません。SNSは、アルゴリズムという大きな波の上にあります。流行、数字、拡散。そこには確かに熱があります。でも、私は、もう少し静かな場所で、言葉を置いてみたくなりました。

サイトは、私の小さな部屋のようなものです。

誰かが偶然たどり着くかもしれないし、誰も来ない日もあるでしょう。それでも、そこに並んでいる言葉たちは、私が確かに生きていた証のように、ひっそりと存在する。タイムラインの速さとは違う、時間の流れがそこにはあります。

ニーズがあるかどうかは、正直わかりません。

けれど、ニーズがあるから書くのではなく、書いてしまうから置いておく。その積み重ねが、私の創作スタイルなのだと思います。器用だった手先は、いまはキーボードを叩いています。長続きしなかったフルートの代わりに、改行が息継ぎをしてくれます。

ネット詩という言葉を知ったことで、私はどこか安心しました。名前があるということは、孤立ではないということだから。

それでも最終的には、私は私のために書きます。

頭の中のざわめきを、少しでも整えるために。
今日もまた、誰に届くともわからない言葉を、静かに置いていこうと思います。


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